陸上選手だった故人
彼女は昔、陸上選手だったそうだ。学生時代は無我夢中で走り抜け、
30歳まで継続して走った。
当時のそれはマラソンという固有名詞ではなく、陸上と呼ばれる時代だったのだろう。
ご家族から故人の過去の思い出を語られるとき、まるでモノクロの過去の映像が思い浮かぶようだ。なにせ半世紀以上も前の話なのだから。
ご遺体の状態は良好
陸上のおかげか、生まれ持った遺伝か素質か、手足が大きなこの女性は優しい旦那さんと息子、孫とひ孫に見守られながら今生で最後となるお風呂に入っていた。
生前、施設では丁寧にお世話をされていたようで、全身傷や垢もなく、本当にすべすべのお肌。
羨ましいほど真っ白なお肌。顔色だけでなく全身の変色も進んでおらず状態は良好。
床ずれも出来ないように、施設での賢明なお世話がここへきてきちんと見受けられた。
ひ孫の無垢な瞳
さて、部屋の片隅で若いママに抱かれている小さなひ孫は生後7ヶ月でようやくお座りをしたところ。後頭部はまだごろ寝のころの名残で毛が薄くなってしまって丸い肌がなんと無防備なことか。
身内が亡くなったことなどつゆもしらない赤ん坊が、ママに身体を委ねキョロキョロと無垢な瞳で周りを見回している。
何故だろう、ついつい湿っぽくなるのが決まりのこういう場に、これほどちんまい赤ん坊がいるだけで和やかな空気が充満する。
まるで、自分が生まれたときに最後までボケることのなかったひいばあちゃんが、どんなにか喜んだのかをまるで知らないような顔をして。
優しい旦那さんと可愛いひ孫
喪主である故人の旦那さんは、そのひ孫が可愛くて可愛くてたまらない様子で、静かに眠りながらお風呂に入る奥さんに声を掛けながら、反対側の壁側にいるひ孫をあやすのでも大忙し。
「おーい、きれいにしてもらってよかったなぁ。いい顔しとるの~眠っとるだけちがうんか?話しかけたら返事しそうやのぅ~」
と、湯灌中の奥さまに語りかける。
「気持ち良さそうだなぁ、ほんと痩せてしもたなぁ。もっと骨太やったのにのぅ」
喪主さんは続いてひ孫に話しかけます。
「おーぅい!たけちゃぁん
いい子だなぁ、ほうら、ひいばあちゃんがお風呂入っとるよ、見てやってよ~」
と、ニコニコと満面の笑みの旦那さん。
たけちゃんも嬉しそうに、どこか恥ずかしそうにママの膝の上でぴょんぴょん跳ねる。ひいおじいちゃんの声に大きく反応しているのがよく伝わってくる。
故人の旦那さんは両足がガリ股に曲がっていて足が悪く、歩くのがやっとです。
お湯灌が終わったのち、そんな足を引きずりながら奥さんのそばまでやってきてペチペチと頬を触って、彼は愛おしそうに笑った。
旦那さんはたけちゃんの方を振り向くとまた話しかける。
「きれいやのぉ~
たけちゃん~ひいばあちゃんこんなにきれいやぞ~」
と、小さな小さなたけちゃんに向けて
自慢げに最愛の妻のことを
一生懸命伝えていた。
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