いつどうして火葬がはじまったのか?
元々土葬が主流であった日本が、なぜ火葬へと移行してきたのか?
それは629年〜700年にも遡る。唐で三蔵法師に師事したあと、法相宗(ほっそうしゅう)を伝えた奈良の元興寺(がんごうじ)の僧侶・道昭(どうしょう)が
『自らの遺言』で西暦700年、弟子たちによって『荼毘に付された』のを最初とする。
これが定説とされてきたようだ。
葬の助の仕事上での教えでは、はじめの火葬はお釈迦様がお弟子さんたちの手によって荼毘に付されたのがはじめと聞いていたので、どこかボワっとしたイメージでしたが、このように調べてみるとはじめの火葬は生身の人間であったということがわかります。
『続日本紀』(797年)の「巻第一文武天皇四年三月」の記載の中に「我が国における火葬はこれをはじめとする、の意」とあるように、鎌倉・室町時代に一般庶民に広まった。
最初のほうは寺の境内、あるいは集落単位の相互扶助の形がとられ人里離れた窪地等で、薪や藁、木炭で野焼きをされたといいます。
坊守(ぼうもり)と呼ばれる寺や坊舎の番人がこの役目を担っていた。
また、集落単位の相互扶助で火葬を行う際は、集落内の人たちがこれを担った。
これは、今でいう差別用語の
(隠亡[おんぼう])と言われる人たちのことです。
火葬が行われるようになったものの、明治政府は1973(明治六)年、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こった。これは仏教破壊運動のことをいうが、この運動を背景に一旦火葬は禁止された。
しかし、東京、大阪など大都市の土葬用地不足と衛生面の問題から、わずか22ヶ月後に解除したという歴史がある。
内務省通達があり、このときから火葬場は寺院の手を離れ一旦民営化の道を進みました。
レンガ組み、建屋が備えられ、燃料に石炭が加わる。
さらに東京、大阪、京都の三府。
長崎、横浜、神戸、新潟、函館の五港町である設置基準が設けられた。
●煙突の高さ
曲尺(かねじゃく)二十四尺
[約7.3m以上]
●火葬場施設内に遺骨を埋葬してはいけない
その後、1897(明治三十)年にできた法律、伝染病予防法によって伝染病死亡者の火葬が義務付けられた。
これを機に自治体は従来の民間火葬場を統廃合するかたちで火葬場建設を急いだということです。
都会以外ではまだまだ土葬
自治体が火葬場建設を急ぐ傍、都会以外ではまだこの時期、土葬が多かった。
全国の火葬率の戦前最高は1942(昭和十七)年で57%。
南方などでの戦死者が多かった1945年には30%に落ち込んだあと、50%を超えたのは1950年代。その後加速度的に増加し、1980年には91%を数え、現在に至る。
公害問題の意識のもと「火葬場の近代化」が叫ばれ、燃料が灯油主流になったのが1970年代。1980年代以降はガスと灯油を中心に建て替えが進みました。
火葬場は今もなお、葬儀業界以上に閉鎖的である。
全ての火葬場では、利用者においても写真の撮影は禁止されています。
なぜなら、写真に火葬場職員が写り込む可能性があるからだと言われています。
もしも写り込んだ人が火葬場職員だと明らかになると、その人が差別の目にさらされるのではとの配慮だそうだ。
火葬場職員ってどんな仕事?
黒の制服に身をまとった職員は一般会葬者にお見送りしていただいたお柩を炉前(ろまえ)に案内し納めます。
また、作業着を身にまとい火室(かしつ)と呼ばれる火葬炉の裏側でご遺体を焼く仕事があります。
火葬場の職員さんは、この二つの仕事をローテーションを組んで公平に行っていると聞きました。
そう、このように現代でも実際『ご遺体を焼く仕事』というものが存在するのです。
今どきの火葬場はボタンをポチッと押せば、人手を要することなく遺体は自動的に焼かれるものだと思われている方がほとんどではないでしょうか?
もちろん、新設の火葬場の炉であれば自動制御が入っており、焼くのに人手はあまりいらないそうです。
しかしガスの火を点け、焼き終えるまで、そしてご遺体の状況を確認しながら手作業をする古いタイプの炉もまだまだ存続しているのです。
ご遺体が生前の姿を留めている。その状態である限り観念のレベルで死を認識できたとて、心の奥底には承認し難い部分があると思います。
ご遺族は火葬の前ともなると心理的に悲しみのピークを迎えるときです。
号泣されたり取り乱したりされる方もおいででしょう。
火葬が済みお骨上げを自らの手で行う。この、ご遺骨を骨壷に入れる行為により死の受容がひと段落する。
この心理プロセスに寄り添う仕事が火葬場職員なのだと思います。
歪めてとらえられる『理不尽』が付きまとうお仕事かもしれませんが、彼らは亡くなられた人の体を「きれい」に焼くためにその手を尽くすそうです。
火葬炉の中はどうなっている
『ほぼ全自動』と聞き及ぶセンサー付きのの火葬炉では人力はほぼ必要なく、バーナーから出た炎がUターンしてくる『交流式』構造。そのため熱効率よく焼くための温度と圧力の自動制御がついている。ただし機会のフォローは人間が行います。
一方旧式の火葬炉の中はバーナーが一本だけのため、そのままでは火が回っていかずきれいに焼けないそうだ。
炉の裏側にある小窓からデレッキという長い棒を炉の中に突っ込んで、遺体の位置を整えながら荼毘にふす。
さて、ご遺体の状況によっては焼き終えるまでの時間は短くも長くも変化する。
日本人は骨への執着心が強い。なるべくきれいに骨が残るように焼くのはこのためだ。まれに不完全燃焼を起こし黒煙が上がり何も見えなくなったり、小窓の開閉で排気の加減を調節したりします。
我々の知らないところでこういった職員さんによる陰ながらの努力があるわけだ。
『きれい』のニュアンスは難しいものがありますが、様々な副葬品が溶け、焼け残りお骨に付着することや、青や赤の色が付着し、お骨が変色することなどもあるため、柩が焼けきり中身があらわになるとデレッキを用いてドライアイス、花、食品などの副葬品をご除ける作業などをして下さっているのです。
副葬品はたくさんあればあるほど温度を下げ、火の回りを悪くするといわれています。
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喉仏は残らないこともある
そして、喉仏(のどぼとけ)について気になる記述がありましたので、ここでも記載させていただきます。
ロストル式と呼ばれる炉の場合、燃え尽きて落下した骨が崩れやすく、形がしっかりわかるように残るのは全体の30%ほどである。とあります。
つまり、きれいに喉仏が残らない可能性は非常に高いということだ。
火葬場は、我々が最終的に荼毘に付される場所です。
しかし、その全貌は葬の助を含めほとんどの方が知りません。またスポットの当たりにくい火葬場で働く職員さんがどのような思いや誇りを持って働いておられるのか。
日々、炉前で働く人々のことを思うと、葬の助は頭が下がる思いです。
小津安二郎監督の映画『小早川家の秋』の中に、火葬場に関する印象深いシーンがあります。興味のある方はどうぞ。
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